活動報告

大阪市なくすな!歴史的なオール大阪のうねり!

[活動報告]2015/05/11 更新

大阪市を廃止・解体する住民投票まで一週間となった5月10日、自民党と共産党の合同街頭演説が行われました。自民党からは大阪府連会長の竹本衆議院議員、柳本参議院議員が参加。日本共産党からは、書記局長の山下参議院議員、宮本衆議院議員と私が参加し、エール交換を行いながらマイクを握りました。民主党の辻元衆議院議員、尾立参議院議員もかけつけ、党派を超えて、それぞれの立場から「大阪市をなくすな!」の思いを述べました。

山下よしき書記局長の「壊すより、いかして変えよう、大阪市」というフレーズに、あつまった多くの聴衆から拍手と声援が飛びました。共産党の宣伝カーに、自民、民主の国会議員がそろって登壇するという、歴史的な場面に立ち会うことができました。これは決して野合などではなく、愛する大阪市を守りたい、市民のくらしを支えたいという、切実な要求をもつ市民共同のあらわれです。

午後からは、扇町公園に5,000人を超える市民があつまり、集会とパレードに取り組みました。ここでも、党派をこえて、政令指定都市の大阪市を上から目線で廃止する住民投票に反対を広げようという熱い思いがうねりをあげました。医師会、商店会、地域振興会、経済界、市民団体、各政党から、決意表明が行われました。この集会には、共産党国会対策委員長の穀田衆議院議員も参加しました。

夜は、東成区で開かれた超党派の勉強会に党を代表して出席。各党議員のみなさんと、大阪市を廃止して、5つの特別区に再編することの意義などについて賛成・反対の立場から意見を述べました。週末の世論調査では、反対派がややリードしているものの、その差は僅かであり、まったく予断を許さない状況です。賛成派の巻き返し工作も決して甘くみることはできず、最後まで死力を尽くした運動が必要です。あと一週間。大阪市の廃止・解体をゆるさないために、住民投票で「反対」と書いてくださる方を大きく広げていきたいです。

大阪市を廃止する住民投票には「反対」を!

[活動報告]2015/05/07 更新
清水 忠史さんの写真
 
連休中は大阪市内でマイクを握り、5月17日の住民投票で「反対」を投じていただきたいと市民のみなさんに訴えました。賛成票が一票でも上回れば、126年の歴史を誇る政令指定都市・大阪市は廃止されます。そして、財源や権限を「府」に奪われた特別区では、これまで通りの行政サービスができなくなってしまいます。
 
今回の住民投票には、最低投票率の規定がありません。また、投票用紙には「賛成」か「反対」しか記入できず、「保留」は認められないのです。橋下市長の人気投票にしてはいけません。市民一人ひとりが慎重に考えて、投票所に足を運んでいただきたいと思うのです。壊すのではなく、よりよい大阪市にチェンジしていくことを目指すべきです。

このままでいいのか裁判員制度

[活動報告]2015/04/23 更新

4月21日、衆議院法務委員会が開かれ、裁判員法の一部を改正する法律案について質疑に立ちました。法案の内容は、審理期間が著しく長期にわたる裁判については、裁判員制度から除外をしたり、災害地の裁判員候補には呼び出しを行わないとするなど、4点にとどまっています。

裁判員制度は2009年5月に始まり、間もなく6年となりますが、この間、日弁連、自由法曹団などの法律家団体をはじめ、諸団体やメディアなどでも数多くの改善すべき事項が提起されてきました。

これまで約5万6千人の裁判員が公判に参加してきましたが、最近では辞退者が急増。裁判員候補のうち事前に辞退を申し込むひとが64%を超え、期日に欠席する人の割合(いわゆるドタキャン率)も28.5%にのぼっています。最高裁の意識調査でも、「あまり参加したくない」「義務であっても参加したくない」と答えた国民の割合が合わせて87%と、制度施行時から7%も増えています。

上川陽子法務大臣は、裁判員経験者の9割以上が「よい経験をした」と答えていることをもって裁判員制度が順調に機能しているとの認識を示しましたが、私からは、それは裁判終了直後の達成感、満足感、安堵感によるものであり、時間の経過とともに「あの時の判決は正しかったのだろうか」という不安にかられたり、凄惨な証拠がトラウマとなり、健康に不調をもたらしたりする例もあることを示し反論しました。

なぜ、裁判員制度に対する国民の信頼が高まらないのか。そもそも自白偏重ともいえる日本の刑事裁判のあり方は、数多くの冤罪を生みだす役割を果たし、最近でも袴田巌さんの事件に代表されるように、社会問題にもなってきました。裁判員裁判が、推定無罪の原則をつらぬくとともに、国民の社会常識、市民感覚をよりよく反映させ、事実認定を適正化する制度となるよう、抜本的な改善が求められているのであり、今回の改正案はきわてめて不十分だと指摘しました。

死刑もしくは無期懲役になる刑事事件だけを扱うのではなく、民事、行政、労働裁判など、広い分野に市民感覚を取り込むことこそ必要なはずですが、今回の法案にはまったくそうした内容が含まれていません。

「裁判員制度に関する検討会」が提出した報告書によると、公判前整理手続における証拠の全面開示や、犯罪の事実認定と量刑判定を分けて審議する手続き二分化などを求める意見ついては「この場での議論としてはふさわしくないとの意見が多数を占めた」とあり、法案に反映されていないことがわかりました。

私からは「あらためて議事録を読み返したが議論を排除する意見が多数とは言い難い。検討会の座長を除いた10人のうち、何人の委員がこの場で議論することがふさわしくないと言ったのか」とただしたところ、法務省刑事局長が「10人中5人」と答弁しました。

拮抗する意見を「多数」として描き、検討会の論点から排除してきたことを暴露したうえで、このような報告書をもとに、まともな審議などできるのかと詰め寄りました。今後は、参考人を招致して、さらに裁判員制度の見直しについて議論を深める予定です。引き続き頑張ります。

選挙をたたかった仲間のみなさんへ

[活動報告]2015/04/16 更新

【2勝3敗】――負けたら終わりか――

2勝3敗。僕自身の選挙戦での勝敗です。府会議員候補として挑戦したのが2003年のこと。最初の立候補は12年も前なんですね。短期間の候補者活動ではありましたが、若さもあってガムシャラに訴えた記憶があります。ちょうどイラク戦争が開戦した時期と重なり、関西空港二期事業などの大型開発の批判と合わせて、戦争反対をスローガンにがんばりました。定数1の選挙でダブルスコアの敗退は、よく頑張ったという周りの方からの激励も素直に受け止められないほどのショックを僕にもたらしました。選挙には、まぐれや奇跡は絶対に起きない。そう感じた結果でした。【0勝1敗】

次の選挙は2007年です。定数2の福島区で大阪市会議員に挑戦。その2年前には吹田市から住居を移し、本格的な活動に取り組みました。連日寄せられる生活相談に真摯に取り組み、住民運動が沸き起これば、その先頭に立ち、住民を励ますことに努めました。駅頭やスーパー前での定例宣伝も定着させ、「スーパーマン」(いつもスーパーの前にいるから?)のあだ名をいただいたのもこの時期でした。結果、支部や後…援会のみなさんの猛烈な奮闘が実り、16年ぶりに日本共産党の議席を獲得することができたのです。初当選は38歳でした。【1勝1敗】

2010年、市会議員を任期途中で辞職し、参議院大阪選挙区候補としてたたかいました。初の国政選挙です。市議に押し上げてくださった、区民や支持者を裏切る形にもなりますし、ずいぶん悩みました。しかし、国の政治を変えることなしに、住民の暮らしを守ることはできないということを、議会活動を行う中で強い確信にしていましたし、「いま大阪の共産党で一番強いやつは誰や。一番強いやつが出ることが国民への責任でもあるんとちゃうか」という方々の指摘や期待も、僕の背中を押してくれました。必ず当選し、国政の立場から福島区のみなさんの期待に応えたいという決意で臨みました。おりしも民主党ブームの時、みんなの党も絶頂期。当時は定数3でしたが、第6位という結果に、力不足を痛感しました。その直前に行った市議補欠選挙でも、自分の後継者を当選させることができず、あとあと、あの時の選択は間違っていたのではなかったのかと、時折焦燥感にかられたことを思い出します。42歳になっていました。【1勝2敗】

2012年、吉井英勝さんの後を受けて衆議院比例代表近畿ブロックから挑戦。名簿順位3位なら鉄板だと、気の早い友人からは候補者発表と同時に「おめでとう!」とのメールが届いたほどです。早すぎるやろと。しかし、世間は、いや選挙は、決して甘いものではありません。今度は第三極ブームが到来。維新のたすきをかけて駅前に立っているだけで無名の新人が大量に得票し、次々と議席を獲得していく。そんな情勢でした。まさかの落選。もう、議会とは縁がないのかも…。そんな考えも頭をよぎりました。この時だけは、「市会議員を辞めるべきではない」と説得してくれていた妻には、申し訳ない気持ちにもなってしまいました。そのとき、「俺は学生時代サッカー部やった。試合に負けた次の日からグランドを走った。走って、走って、走りまくったんや。せやから清水さんはこれからも、喋って、喋って、喋りまくったらええんや」という知人の言葉に励まされました。44歳の時でした。【1勝3敗】

そして昨年12月、1勝3敗で迎えた突然の総選挙。本格的な自共対決の時代が到来。その前年の都議選、参議院選挙で躍進した余勢をかって日本共産党は大躍進。近畿ブロックでも議席倍増を実現し、清水忠史もついに国政へ送っていただくこととなりました。多くの方々に支えられ、本当に感謝しています。現在は、46歳。日本共産党議員団の一員として、国会活動、選挙活動、大阪を守るたたかいに、努力する日々を送っています。【2勝3敗】

念願かない、国会で活動できるようになったわけですが、僕自身、他の同僚議員同様、もともと議員となることが約束されて入党したわけではありません。赤旗出張所長をはじめ、9年あまり党の勤務員として働かせていただきました。周りに推されて候補者の道を歩んでくることができたわけですが、候補者となったからと言って、私のように頑張れば当選できる選挙区で活動できるひともあれば、勝利の土台を築くために、それこそ長年にわたる粘り強い活動を求められる選挙区で奮闘する方もおられるのです。

僕は、大阪市会議員を辞職して、衆議院議員に当選するまでは、5年近い歳月を要しました。国政選挙で連敗するという辛い経験もしました。絶対に勝たなくてはいけない選挙で負けてしまいました。しかし、挫けずに前を向いて頑張ることができたのは、僕を支え続けてくれる多くの方が党内外にいてくれたことです。そして、勝てなくても、日本共産党の党員として、候補者として、社会を前にすすめているんだという誇りと確信を持ち続けることができたからです。

負けたら終わりではなく、やめたら終わり。勝つまでたたかう。

そんな思いで頑張ってきました。どんなたたかいも、負けたら終わりではありません。やめた瞬間、あきらめた瞬間、確信を失った瞬間に終わってしまうものだと思います。勝つまで頑張るという心の持ちようが、わかりやすく言えば「根性」が、勝って負けてを繰り返した、この間の経験で僕にしみついたのかもしれません。

いっせい地方選挙の前半戦で、大奮闘しながらも、議席に届かなかった仲間のみなさんに、心からの敬意をあらわして、今回の文章をおこしたところです。読んでいただいてありがとうございました。

【4月15日】 清水忠史の今日もおおきに!~落ち着いて見えた?~の巻

[活動報告]2015/04/15 更新

4月15日に開かれた衆議院法務委員会で、裁判所職員定員法について質疑に立ちました。冒頭、上川陽子法務大臣に三権分立にもとづく「司法権の独立」の意味について質問。裁判所は行政から独立して自主性を保つということを確認したうえで、政府が裁判所に対して人件費の削減を目的にした定員合理化計画への協力を求めたことを証拠資料を示して質しました。

今回、最高裁判所では、判事や書記官の定員を増やすものの、成年後見事件や複雑化する少年事件で多忙を極める家裁調査官については増やしていません。国民にとって迅速で公正な裁判を保障するうえで、最高裁判所は政府の定員合理化計画に協力するのではなく、必要な職員を配置せよと迫りました。

また、乳飲み子を抱えた女性の家裁調査官が、希望しない遠隔地への異動を余儀なくされ、週末さえも自宅に戻れない状況を告発。女性が結婚・出産しても、安心して働くことのできる職場にするために希望にこたえるべきだと質したところ、最高裁判所は「最大限努力する」と答弁しました。

いっせい地方選挙前半戦の疲れからか、声にキレと元気がなく、気にしていたのですが、インターネット中継を視聴していた妻からは、「あれくらいでちょうどええんちゃう?いつもより落ち着いて見えたわ」との感想。救われた気持ちになりました。