活動報告

選挙をたたかった仲間のみなさんへ

[活動報告]2015/04/16 更新

【2勝3敗】――負けたら終わりか――

2勝3敗。僕自身の選挙戦での勝敗です。府会議員候補として挑戦したのが2003年のこと。最初の立候補は12年も前なんですね。短期間の候補者活動ではありましたが、若さもあってガムシャラに訴えた記憶があります。ちょうどイラク戦争が開戦した時期と重なり、関西空港二期事業などの大型開発の批判と合わせて、戦争反対をスローガンにがんばりました。定数1の選挙でダブルスコアの敗退は、よく頑張ったという周りの方からの激励も素直に受け止められないほどのショックを僕にもたらしました。選挙には、まぐれや奇跡は絶対に起きない。そう感じた結果でした。【0勝1敗】

次の選挙は2007年です。定数2の福島区で大阪市会議員に挑戦。その2年前には吹田市から住居を移し、本格的な活動に取り組みました。連日寄せられる生活相談に真摯に取り組み、住民運動が沸き起これば、その先頭に立ち、住民を励ますことに努めました。駅頭やスーパー前での定例宣伝も定着させ、「スーパーマン」(いつもスーパーの前にいるから?)のあだ名をいただいたのもこの時期でした。結果、支部や後…援会のみなさんの猛烈な奮闘が実り、16年ぶりに日本共産党の議席を獲得することができたのです。初当選は38歳でした。【1勝1敗】

2010年、市会議員を任期途中で辞職し、参議院大阪選挙区候補としてたたかいました。初の国政選挙です。市議に押し上げてくださった、区民や支持者を裏切る形にもなりますし、ずいぶん悩みました。しかし、国の政治を変えることなしに、住民の暮らしを守ることはできないということを、議会活動を行う中で強い確信にしていましたし、「いま大阪の共産党で一番強いやつは誰や。一番強いやつが出ることが国民への責任でもあるんとちゃうか」という方々の指摘や期待も、僕の背中を押してくれました。必ず当選し、国政の立場から福島区のみなさんの期待に応えたいという決意で臨みました。おりしも民主党ブームの時、みんなの党も絶頂期。当時は定数3でしたが、第6位という結果に、力不足を痛感しました。その直前に行った市議補欠選挙でも、自分の後継者を当選させることができず、あとあと、あの時の選択は間違っていたのではなかったのかと、時折焦燥感にかられたことを思い出します。42歳になっていました。【1勝2敗】

2012年、吉井英勝さんの後を受けて衆議院比例代表近畿ブロックから挑戦。名簿順位3位なら鉄板だと、気の早い友人からは候補者発表と同時に「おめでとう!」とのメールが届いたほどです。早すぎるやろと。しかし、世間は、いや選挙は、決して甘いものではありません。今度は第三極ブームが到来。維新のたすきをかけて駅前に立っているだけで無名の新人が大量に得票し、次々と議席を獲得していく。そんな情勢でした。まさかの落選。もう、議会とは縁がないのかも…。そんな考えも頭をよぎりました。この時だけは、「市会議員を辞めるべきではない」と説得してくれていた妻には、申し訳ない気持ちにもなってしまいました。そのとき、「俺は学生時代サッカー部やった。試合に負けた次の日からグランドを走った。走って、走って、走りまくったんや。せやから清水さんはこれからも、喋って、喋って、喋りまくったらええんや」という知人の言葉に励まされました。44歳の時でした。【1勝3敗】

そして昨年12月、1勝3敗で迎えた突然の総選挙。本格的な自共対決の時代が到来。その前年の都議選、参議院選挙で躍進した余勢をかって日本共産党は大躍進。近畿ブロックでも議席倍増を実現し、清水忠史もついに国政へ送っていただくこととなりました。多くの方々に支えられ、本当に感謝しています。現在は、46歳。日本共産党議員団の一員として、国会活動、選挙活動、大阪を守るたたかいに、努力する日々を送っています。【2勝3敗】

念願かない、国会で活動できるようになったわけですが、僕自身、他の同僚議員同様、もともと議員となることが約束されて入党したわけではありません。赤旗出張所長をはじめ、9年あまり党の勤務員として働かせていただきました。周りに推されて候補者の道を歩んでくることができたわけですが、候補者となったからと言って、私のように頑張れば当選できる選挙区で活動できるひともあれば、勝利の土台を築くために、それこそ長年にわたる粘り強い活動を求められる選挙区で奮闘する方もおられるのです。

僕は、大阪市会議員を辞職して、衆議院議員に当選するまでは、5年近い歳月を要しました。国政選挙で連敗するという辛い経験もしました。絶対に勝たなくてはいけない選挙で負けてしまいました。しかし、挫けずに前を向いて頑張ることができたのは、僕を支え続けてくれる多くの方が党内外にいてくれたことです。そして、勝てなくても、日本共産党の党員として、候補者として、社会を前にすすめているんだという誇りと確信を持ち続けることができたからです。

負けたら終わりではなく、やめたら終わり。勝つまでたたかう。

そんな思いで頑張ってきました。どんなたたかいも、負けたら終わりではありません。やめた瞬間、あきらめた瞬間、確信を失った瞬間に終わってしまうものだと思います。勝つまで頑張るという心の持ちようが、わかりやすく言えば「根性」が、勝って負けてを繰り返した、この間の経験で僕にしみついたのかもしれません。

いっせい地方選挙の前半戦で、大奮闘しながらも、議席に届かなかった仲間のみなさんに、心からの敬意をあらわして、今回の文章をおこしたところです。読んでいただいてありがとうございました。